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Monday, September 15, 2014

朝日が修正した「吉田清治証言」は「河野談話」作成のためには全く使われていない。- 緊急寄稿「河野談話検証報告を検証する」(田中利幸)The Seiji YOSHIDA testimony that Asahi retracted was NOT used for Kohno Statement: Yuki Tanaka on the Abe government's "review" of the Kohno Statement

日本軍「慰安婦」問題をはじめとする戦争責任問題についての著作や論文が多数あり、世界各国で講演する広島市立大平和研究所教授の田中利幸氏による緊急・重要投稿です。現在の「朝日新聞叩き」の中でどさくさに紛れて日本軍「慰安婦」の史実さえも否定しようとする勢力に惑わされてはいけません。忙しい人も以下の一点だけは必ず押さえてください。朝日新聞が訂正した、「吉田清治証言」は「河野談話」作成のためには全く使用されていません。したがって「吉田清治証言」報道をいまさら朝日新聞が修正したところで「河野談話」には全く影響はなく、ましてや「河野談話」を修正したりこれに代わる新たな「談話」を発表する理由などには全くなりません。

この点について田中氏の本文の最後の方から重要部分も抜粋しておきます。
最近、吉田清治の虚偽証言に基づいて朝日新聞が19829月以来たびたび記事を発表したことに対して、訂正記事を発表し、最終的に謝罪を行った。すでに述べたように、この吉田証言は河野談話作成のためには全く使われていない。当時の官房副長官であった石原信雄も、最近のテレビ・インタヴューで、吉田証言には虚偽の疑いがあったため河野談話作成のための資料としては使わなかったことをはっきりと認めている。にもかかわらず、朝日が訂正記事を発表するや、あたかも河野談話は吉田清治証言にのみ依拠して作成されたかのような発言が安倍支持一派から次々に出され、「強制」はデッチアゲであるという非難の声をあげている。朝日新聞が30年余りたった現在になってようやく誤りを認めて関連掲載記事を取り消したが、もっと早く訂正・謝罪をしておくべきであった。この点、朝日新聞に大きな落度があったことは言うまでもない。しかし、当時、同じように吉田清治虚偽証言を信じて報道していた読売新聞や共同通信はほとんど非難を受けず、朝日新聞だけが攻撃のマトになったことに深い違和感を感ぜずにはいられない。これも、「河野談話検証」と連結した「河野談話空洞化作戦」の一つであろう。その最終目的は、河野談話を正式に無効とし、新しく「安倍談話」なるものを発表し、それを日本政府の公式見解としてしまうことである。

朝日新聞叩きを読みながら「あら、『慰安婦』の強制はやはりなかったのかしら。証言も嘘だったのかしら」などと思っているかもしれない人々へー週刊誌の中吊り広告的な扇動的な情報に惑わされず、冷静に信頼できる情報源を判断してください。

日本軍『慰安婦』について史実を確実な証拠と共に学べるサイトの一つとしてこれを紹介します。

日本軍「慰安婦」-忘却への抵抗・未来への責任
http://fightforjustice.info/ 

まずはこの田中氏の寄稿を読むところからスタートしてください。今こそ日本人の良識と良心が問われています。またこの投稿の転載、投稿からの引用には初出として必ずこの投稿のURLを記してください。@PeacePhilosophy



河野談話検証報告を検証する

 


田中利幸


 

「河野談話」空洞化を意図して作成された検証報告

2014620日、日本政府は、旧日本軍による「従軍慰安婦」への関与と強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の「検証結果」と称して、「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯:河野談話作成からアジア女性基金まで」と題する報告書を公表した。検討委員を務めたのは、但木敬一(元検事総長)、秋月弘子(亜細亜大学教授 国際法専攻)、有馬真喜子(ジャーナリスト)、河野真理子(早稲田大学教授 国際法専攻)、秦郁彦(現代史家)の5名であった。日本軍性奴隷制問題を検討するためには関連の歴史的専門知識が必要とされることは言うまでもないことである。しかし、検討委員の中で歴史家は秦郁彦ただ一人であり、しかも秦は「女性の強制連行は基本的にはなかった」と、安倍一派に近い見解をとっている人物である。報告書の内容は第1部「河野談話の作成の経緯」と第2部「韓国における『女性のためのアジア平和国民基金』事業の経緯」に分けられているが、冒頭で河野談話を再検討しなければならなくなった理由だとして、次のように3点を挙げている。 


    「河野談話については,2014220日の衆議院予算委員会において、石原元官房副長官より、1.河野談話の根拠とされる元慰安婦の聞き取り調査結果について、裏付け調査は行っていない、2.河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある、3.河野談話の発表により、いったん決着した日韓間の過去の問題が最近になり再び韓国政府から提起される状況を見て、当時の日本政府の善意が活かされておらず非常に残念である旨の証言があった。」
 

ここでも、検討の焦点はあくまでも元「慰安婦」証言の信憑性であり、歴史的事実に関する他の関連資料の検討は最初から全く考慮に入れるつもりがないことを明らかにしている。そうした批判が出るであろうことを最初から予測してであろうが、「検討チームにおいては、慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない」という一文を最後に入れている。つまり、「歴史的事実の検証」は最初からこの検討グループの目的ではないことにしてしまうことで、批判をかわそうとしているのである。談話の内容を検討するのであれば、談話作成の土台となった最も重要な歴史的事実に関連する資料を詳細に検討するのが当然且つ必然の手続きであるが、それについては一切調査・検討は行わないというのである。これがゴマカシでなければ、いったい何のための検証か。しかも、「いったん決着した日韓間の過去の問題」を再三にわたり蒸し返し、河野談話への攻撃を執拗に行ってきたのは安倍晋三本人と安倍を支持する右翼勢力であるにもかかわらず、厚顔無恥にも最近になり再び韓国政府から提起される状況」になったと主張し、あたかも韓国側に責任があるかのごとく主張している。報告書の冒頭のこの1節に目を通すだけで、報告書内容がどのようなものになっているのは大かた推測がつくというものである。

第1部は「河野談話の作成の経緯」と題されてはいるが、その内容は、この問題での真相究明の方法をめぐって、当時の宮沢内閣と韓国政府がどのような交渉を行ったかの説明のみに当てられており、繰返して述べるが、河野談話作成のために使用された歴史的事実に関する様々な資料の評価は一切行われていない。しかも、河野談話作成をめぐっては、日韓両政府の間で様々なやりとりがあったことをとりあげて、「河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある」ことをなんとしても裏付けようという意図が明白である。どのような国際関係問題であっても、当事国の間で、結論が出るまでには様々な外交交渉が行われるのは当たり前である。にもかかわらず、この問題では外交交渉が行われたことがあたかも異常事態であったかのように描写している。しかも、日本政府側が「強制」という事実を証明する資料がないと繰り返し主張したにもかかわらず、韓国側からの一方的な強い要求を最終的には受け入れざるをえなくなり、日本側が不本意ながら「強制」を認める形で河野談話は作成されたという印象を強くあたえようという意図で報告書のこの部分は書かれている。河野談話作成に使用された資料の中で、この報告書で唯一問題にされているのが、「元慰安婦からの聞き取り調査」であり、その経緯を調査した結論として報告書は以下のように記している。


「聞き取り調査の位置づけについては、事実究明よりも、それまでの経緯も踏まえた一過程として当事者から日本政府が聞き取りを行うことで、日本政府の真相究明に関する真摯な姿勢を示すこと、元慰安婦に寄り添い、その気持ちを深く理解することにその意図があったこともあり、同結果について、事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった。聞き取り調査とその直後に発出される河野談話との関係については、聞き取り調査が行われる前から追加調査結果もほぼまとまっており、聞き取り調査終了前に既に談話の原案が作成されていた。」(強調引用者)
 

かくして、「強制」の事実については、この報告書は、その信憑性が疑わしいにもかかわらず、それは問題にせず、親切にも日本政府側は、元「慰安婦」の人たちの気持ちに十分配慮して、彼女たちの証言を調査する前から全面的に受入れていたのだ、と主張しているのである。つまりは、元「慰安婦」証言は、その内容は全く検証せずに政治的な判断から受入れを決めていたのだと主張しており、それは裏返せば、「彼女たちの証言は真実ではない」ということを暗示しているわけで、日本軍性奴隷制の犠牲者をいたく侮蔑した記述である。 

2部「韓国における『女性のためのアジア平和国民基金』事業の経緯では、被害者女性たちへの「償い金」支払いや医療福祉事業は、日本側の全面的な善意から計画されたものであるにもかかわらず、韓国メディアによる「基金」事業の激しい非難や「償い金」を受け取ろうとする元「慰安婦」へのハラスメントがあったこと、さらにはこうした民間側からの強い反発に憂慮した韓国政府も「基金」事業の受入れに消極的になってしまったことが失敗の原因であると、これまた一方的に韓国側を非難している。それと比較して「フィリピン、インドネシアやオランダでの『基金』事業では、相手国政府や関連団体等からの理解や肯定的な評価の下で実施できたと」主張している。しかし、実際には、これらの国々でも当初はかなりの反発がみられ、「償い金」受取を拒否し続けた被害者が多くいた事実などについては、報告書は詳しく触れていない。 

問われるべき最も重要な問題は、被害者女性の全てではないとしてもその多くが、また彼女たちを支援する民間団体がなぜゆえに「基金」事業にそれほどまでに強い不満を持っていたのかということである。この自己検証的問題追求が、報告書では全くなされていない。 

「基金」非難の中で何よりも重要な点は、「国民基金」と銘打ちながら、実際に日本国民が個人として寄付した金額は少なく、大部分が政府から要請を受けた官庁職域や労働団体、企業等からの寄付金によるものであった。しかも、民間事業という体裁をとりながら、実際の「償い金」の金額の決定に際しては、いろいろな政治的配慮から一人200万円という額を政府側が強く主張して、これを「基金」理事会側に承諾させている。さらに、政府側は、被害者女性が「償い金」を受け取ることで、現在日本で裁判訴訟を行っている場合はこれを取り下げること、あるいは将来訴訟は行わないことの被害者からの確約を期待していた。さらに、首相が社会党の村山富市から自民党の橋本龍太郎にかわると、橋本は、裁判訴訟との絡みで、「償い金」と一緒に被害者に手渡す「謝罪の手紙」を送ることを躊躇したことなど、相手側に日本政府への不信を強く起こさせるような様々な問題を、この「基金」事業のあり方自体が孕んでいたのである。すなわち、韓国のみならず、その他の国々の当事者ならびに関係者に、「基金」に対する疑念と対日不信を起こさせる原因の多くは、日本政府と「基金」側にあったにもかかわらず、これに対する「検証」は、この報告書では全く行われていないのである。 

国民基金」と銘打つならば、日本国民全体が日本軍性奴隷制問題に対する道義的責任をはっきりと認識し、それに対する責任を自覚し、そうした歴史認識と自覚のもとに犠牲者への真摯な「償い」として「基金」事業が実施されるように、日本政府がすすんで努力しなければならない。ところが、一方で、学校教育では日本軍性奴隷制問題のみならず、日本軍がアジア太平洋各地で犯した様々な残虐な戦争犯罪行為を教えることは拒否するのみならず、そのような歴史事実そのものを否定するような歴史観の拡散をはかっているわけであるから、道義的責任感が国民的に共通な意識となるはずがない。それゆえ、韓国側からみれば、「基金」事業は日本政府が戦争責任を逃れるための、いわば「隠れ蓑」のようなものではないかという疑念が起きたのも当然である。 

したがって、「基金」事業が「基金」に直接関わった当事者以外からは、日本国内でも海外でもほとんど評価されなかったのも不思議ではない。河野談話検証の検討委員を務めた5名のうち、有馬真喜子は「基金」の理事の一人であり副理事長も務めたし、秦郁彦は「基金」の資料委員会のメンバーで有馬とも交流があった人物である。あらためて言うまでもないことであるが、「基金」に直接関わっていた人間が、「基金」事業の検証を行うということ自体がそもそもおかしいのである。 

19988月に国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で採択されたゲイ・マクドゥーガル報告書以来、幾度にもわたって国連に提出された日本軍性奴隷問題関連の報告書が、日本の「法的責任」を厳しく問いただしている。ところが、「基金」は、「法的責任」には全く配慮しないままで、事業をすすめてきた。国際社会からの「基金」評価が極めて低い理由は、この点にもある。河野談話検証の検討委員には、国際法専攻の秋月弘子と河野真理子の2人もの女性学者がいながら、この点に関する「検証」も全く行われていない。この2人は、いったいどんな「検証」作業に携わったのであろうか。 

したがって、結論として言えることは、河野談話の「検証結果」である報告書、「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯:河野談話作成からアジア女性基金まで」は、最初から2つの極めて政治的な目的のために作成されたことが判明する。一つは、「慰安婦」と呼ばれた女性たちへの性奴隷制的「強制」はなかったのであり、犠牲者女性たちによる「証言」には信憑性がないという安倍内閣の主張をあらためて強調すること。すなわち、「河野談話は継承する」と述べておきながら、事実上は河野談話の空洞化をはかり最終的には無効にしてしまうこと。もう一つは、きわめて評判の悪かった「女性のためのアジア平和国民基金」の自己正当化である。このような内容の河野談話の「検証結果」発表は、「慰安婦問題」の解決どころか、国際社会から、安部政権の、ひいては日本全体に対する不信感をますます強めることになることは自明のことであるが、そのあまりにも自明なことが、安倍本人のみならず、安倍内閣閣僚を含む安倍支持者、さらには検証グループの5人のメンバーにも全く認識されていないようである。


「河野談話」作成の背景と「強制」問題
 
河野談話がどのような経緯で、どのような資料に基づいて作成されたのかを、もう一度ここで確認しておきたい。同時に、「強制」という問題についても、どのように解釈すべきかについて確認しておこう。その前に、最近「朝日新聞」の誤報で問題なった「吉田清治証言」は、信憑性が疑わしいという判断から、河野談話作成の資料としては全く使われていない、ということもここで再確認しておく。

19906月、参議院予算委員会において当時の社会党議員・本岡昭次が日本政府に対して「慰安婦」の調査に関して質問した際、労働省職業安定局長が「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れ歩いて」いたという状況ゆえに調査はできないと答弁。すなわち、政府にはこの問題に関しては責任がないという主張を行った。これを知った日本軍性奴隷制の犠牲者の一人である韓国人、金学順(キム・ハクスン 192497年)が、この発言に激しい怒りを感じ、日本政府の責任を問うため、それまで長年の間、自分の恥として隠してきた「慰安婦」という過去を公表することを同年8月に決意し、記者会見を行った。さらに12月には、彼女は日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。翌19911月、中央大学教授・吉見義明が防衛庁図書館で、軍が直接関与していたことを示す公文書を発見し、このことが大きく報道された。そのため政府はやむなく調査(第1次調査)を開始し、同年7月にその結果を発表して、軍ならびに政府が関与していたことを認めた。ところが、この段階では女性の強制連行については資料が見つからないと政府が主張したため、国内外から強い非難を浴びた。 

こうした背景のもとで、1992116日に訪韓した宮澤喜一首相が盧泰愚(ノテウ)大統領との会談で、「慰安所」設置に日本政府が関与していたことを認め、この問題について真相究明を行うことを約束した。同年731日には韓国政府が『日帝下 軍隊慰安婦実態調査 中間報告』を発表し、その中で、「慰安所」の設置、「慰安婦」の集めかたや輸送方法などについて、当時の日本軍が作成した多くの資料を参照しながら解説すると同時に、13名の元慰安婦の証言を紹介した。この中間報告書には、戦時中に連合軍側が作成した調査資料も添付されていた。日本政府は、この中間報告書や、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が19名の韓国人元「慰安婦」被害者を聴き取り調査して作成した『証言集1 強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦』(19932月発行)、さらにはオランダ軍が戦後の1948年に行った「バタビア裁判」(南方軍幹部候補生教習隊の士官たちが35名のオランダ人女性を「慰安所」に強制連行し強姦した犯罪審査)記録、戦時中に米軍が作成した関連報告書など、合計260点以上の資料を参考にし、その上、実際に16名の元「慰安婦」と軍慰安所関係者約15人から聴き取り調査を行った。政府(内閣外政審議室)は、「いわゆる従軍慰安婦問題について」と題したこの第2次調査の結果を、199384日に公表したが、その中で以下の3点を調査対象としたことが説明されている。


   「調査対象機関

   警視庁、防衛庁、法務省、外務省、文部省、厚生省、労働省、国立公文書館、国立国会図書館、米国国立公文書館

   関係者からの聞き取り

   元従軍慰安婦、元軍人、元朝鮮総務府関係者、元慰安所経営者、慰安所付近の居住者、歴史研究家

   参考とした国内外の文書及び出版物

   韓国政府が作成した調査報告書、韓国挺身問題対策協議会、太平洋戦争犠牲者遺族会など関係団体等が作成した元慰安婦の証言集等。なお、本問題についての本邦における出版物は数多いがそのほぼすべてを渉猟した。」 

   その結果として、「慰安所」の経営と「慰安婦」の募集については、以下のように報告している。

   

   「(6)慰安所の経営及び管理

   慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していたケースもあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した。

   慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために、慰安所規定を設けて利用者に避妊道具使用を義務付けたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の検査を行う等の措置をとった。慰安婦の外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。いずれにせよ、慰安婦たちは戦域においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており自由もない痛ましい生活を強いられたことは明らかである

   (7)慰安婦の募集

   慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性が高まり、そのような状況下で、業者らが或は甘言を弄し或は畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースが数多く更に官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた。」(強調引用者)

   

長年にわたって、そして今も、安倍晋三ならびに彼を支持する政治家や知識人グループは、「軍や官憲が、暴行・脅迫を使って女性を連行(略取)」したのでなければ「強制」ではないという論法をとって、これに当てはまるようなケースを証拠付ける公的資料はないと主張し、したがって日本政府には責任がないことにしてしまおうと躍起になっている。暴行や脅迫で女性を強引に連れ去り、第三者の支配下に置くことが「略取」であり、甘言を弄し女性を騙して生活環境から連れ去り、第三者の支配下に置くことは「誘拐」である。しかし、どちらの行為も刑法では同じ「略取・誘拐罪」であり、この「略取・誘拐罪」は戦後だけでなく、戦前・戦中も明確に定義された犯罪だった。したがって、「略取」と「誘拐」を分けて、一方だけを「強制に基づく犯罪」と見なすこと自体が間違っているのである。河野談話発表の約4カ月前には、当時の谷野作太郎外政審議室長も参院予算委員会で「強制は単に物理的に強制を加えることのみならず、脅かし、畏怖させ本人の自由な意思に反した場合も広く含む」とはっきりと答弁している。しかも、この第2次報告書で明らかにされているように、上記のような様々な資料を調査した結果、「甘言を弄し」て女性を騙し、その結果、彼女たちを「本人たちの意向に反して集め」、「自由もない、痛ましい生活を強い」た責任を日本政府はここで明確に認めたのである。騙された結果、あるいは親の謝金のために無理矢理「慰安婦」にさせられたケースについては、米軍が戦時中に戦地で保護した「慰安婦」からの聴き取り調査として米軍報告書でも詳しく記されている。「本人たちの意向に反して女性を集め、自由もない、痛ましい生活を強いた」ことが「強制」でないとしたら、なんと表現するのであろうか。繰返し述べておくが、甘言を弄し女性を騙して連れ去り、第三者の支配下に置くことは「誘拐」という犯罪行為であり、由々しい人権侵害である。

しかも実際には、日本軍将兵が女性を暴力的に略取してきて強姦し、長期間にわたって性奴隷として監禁した例は、抗日武装活動が激しかった中国大陸北東部やフィリッピンでは数多くあったことがこれまでの調査研究で明らかとなっている。さらにインドネシアでは抑留所に入れられていたオランダ人市民女性を日本軍が文字通り強制連行して「慰安所」に送り込み、強姦したうえで性奴隷にしたこと(いわゆる「スマラン事件」)が戦後のオランダ軍による戦犯裁判でも明らかにされた。それゆえ、「強制連行を証明する資料はなんら存在しない」という安倍たちの主張には、全く正当性がない。 

2次調査結果報告の内容には、「慰安所」が設置された地域から東チモール、マリアナ諸島、パラオ、ナウル、インドなど幾つかの地域名が落ちている。さらに、女性の中には略取、誘拐、人身売買されて「慰安所」に連行されてきた者がいたことを軍当局が明らかに認識していながら、女性を解放せずに性奴隷として監禁していたケースが多々あったことも明確には記述されておらず、暗示的な表現に留まっているなど、その記述には幾つかの問題点がある。しかしながら、「慰安婦」と呼ばれた女性たちが実質的には軍性奴隷であったこと、その責任が日本軍ならびに日本政府にあったことを基本的に認めていると言う点では、この報告書は積極的に評価できる。 

2次調査結果報告発表と同時に、政府はこれらの調査結果にも基づいて河野洋平内閣官房長官が「談話」として発表。その「談話」の中で、宮沢内閣は、はっきりと日本政府の責任を以下のように認めた。 

          「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を 受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに 加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」(強調 – 引用者)

 
ちなみに、元「慰安婦」が日本政府に謝罪と賠償を求めて日本政府を被告に日本の裁判所に訴えたケースは、1991年から2001年までの間に、全部で10件となっている。そのうちわけは、中国人被害者によるもの4件(原告数合計24名)、韓国人被害者によるもの3件(原告数合計13名)、台湾人被害者によるもの1件(原告数9名)、オランダ人被害者によるもの1件(原告数1名)、フィリッピン被害者によるもの1件(原告数46名)となっている。裁判の結果は全てのケースで、国家無答責(戦時中の国家不当行為から生じた個人の損害について国は賠償責任を負わない)や請求権放棄(日中、日韓の間での請求権放棄は条約に定められている)などの理由から、原告(被害者)の請求を認めないものとなっている。すなわち、全てのケースで原告側が敗訴している。 

しかしながら、台湾とフィッリピンのケースを除いた他の8件のケース全てで、軍・政府が「慰安所」の設置や管理に直接関与し、「慰安婦」の「募集」にあたっては、女性の意思に反して軍が女性を集めたり官憲が加担したという歴史的事実や、軍人による女性の拉致・強制連行があった事実を裁判所が認定しているのである。したがって、この裁判ケースでの被害の事実認定によってもまた、安倍たちが主張する「狭義の強制連行(=軍が直接暴行脅迫を用いて女性を連行)はなかった」という主張が、事実とは全く反する、いかに不当なものであるかは明らかである。 

最近、吉田清治の虚偽証言に基づいて朝日新聞が19829月以来たびたび記事を発表したことに対して、訂正記事を発表し、最終的に謝罪を行った。すでに述べたように、この吉田証言は河野談話作成のためには全く使われていない。当時の官房副長官であった石原信雄も、最近のテレビ・インタヴューで、吉田証言には虚偽の疑いがあったため河野談話作成のための資料としては使わなかったことをはっきりと認めている。にもかかわらず、朝日が訂正記事を発表するや、あたかも河野談話は吉田清治証言にのみ依拠して作成されたかのような発言が安倍支持一派から次々に出され、「強制」はデッチアゲであるという非難の声をあげている。朝日新聞が30年余りたった現在になってようやく誤りを認めて関連掲載記事を取り消したが、もっと早く訂正・謝罪をしておくべきであった。この点、朝日新聞に大きな落度があったことは言うまでもない。しかし、当時、同じように吉田清治虚偽証言を信じて報道していた読売新聞や共同通信はほとんど非難を受けず、朝日新聞だけが攻撃のマトになったことに深い違和感を感ぜずにはいられない。これも、「河野談話検証」と連結した「河野談話空洞化作戦」の一つであろう。その最終目的は、河野談話を正式に無効とし、新しく「安倍談話」なるものを発表し、それを日本政府の公式見解としてしまうことである。 

これまで、国連経済社会理事会社会権規約委員会や国連拷問禁止委員会がたびたびこの日本軍性奴隷問題をとりあげ、日本政府に対して勧告を行ってきた。今年724日にも、国連人権委員会が再びこの問題で勧告を出し、「本人の意思に反する行為は人権侵害とみなされる」と判断し、被害者女性たちの人権侵害を調査して責任者を訴追・処罰し、本人と家族が完全な賠償を受けられるように求めた。同時に、日本政府が「公的に謝罪を表明し、国家責任を正式に認める」ようにも促した。しかし、これまで日本政府は、国際社会からのこうした度重なる批判を基本的には無視し続けてきたのである。とりわけ安倍内閣は、さまざまな詭弁を弄した姑息なやり方で、河野談話を継続すると言いながら空洞化させ、国内ならびに国際社会の両方からの批判に、「『慰安婦』への強制はなかった」という「虚言」で反撃している。このようなよこしまで邪悪な言動を続ければ続けるほど、日本国内だけではなく海外諸国でも、安倍自身と日本政府の両方の政治的信用性をますます落とすだけであるということに、安倍本人と彼の支持者たちが気がついていないことが、日本にとってはまことに悲劇である。「女性が活躍し輝く社会をつくる」と主張する一国の首相が、他方で卑劣な嘘で「慰安婦バッシング」を続けているような国、そんな国を国際社会は本当に信頼するであろうか。
 

2014915


【9月16日追記-一か所加筆のお知らせ】

9月15日の投稿で

したがって、「略取」と「誘拐」を分けて、一方だけを「犯罪」と見なすこと自体が間違っているのである。

とあったところを筆者から加筆の指示があり、

しかし、どちらの行為も刑法では同じ「略取・誘拐罪」であり、この「略取・誘拐罪」は戦後だけでなく、戦前・戦中も明確に定義された犯罪だった。したがって、「略取」と「誘拐」を分けて、一方だけを「強制に基づく犯罪」と見なすこと自体が間違っているのである。

と差し替えております。本文の中、修正箇所がわかるように色を変えてあります。

★この追記事項は一週間ほどで削除し、本文中の差し替えた箇所も黒字に戻します。
(追記以上)
 

主な参考文献:

河野談話作成過程等に関する検討チーム慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯:河野談話作成からアジア女性基金まで』(内閣官房・外務省 2014620日)

 

*戸田悠希著「アジア女性基金に関する一研究」『立命館法政論集』第8(2010)

 

*林博文、俵義文、渡辺美奈共著『「村山・河野談話」見直しの錯誤:歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』(かもがわ出版 2013年)

 

*坪川宏子、大森典子共著『司法が認定した日本軍「慰安婦」』(かもがわブックレット  2011年)

 

*『季刊 戦争責任研究 第82号 特集「河野談話」と日本軍資料』(日本の戦争責任資料センター 2014年)

 

Thursday, September 11, 2014

8月9日長崎の原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会(高實康稔メッセージ)Yasunori TAKAZANE's Message for the Memorial Gathering for the Korean Victims of the Nagasaki Atomic Bomb, August 9

今年もアメリカン大学立命館大学の提携プログラムにより京都・広島・長崎の10日間の平和学習の旅が実施され、日本、米国、中国、韓国、カナダ、バングラデシュ等出身の学生、研究者、教員約50名が原爆投下の歴史を学び、被爆者の体験を聞き、核兵器廃絶への道のりを学ぶと同時に「岡まさはる記念長崎平和資料館」訪問などを通して日本の侵略戦争と植民地主義の歴史について学んだ。8月9日は例年通り、原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会に出席、朝鮮人犠牲者の碑に花を捧げた。「岡まさはる資料館」の館長でもある高實康稔氏の集会メッセージをここに紹介する。『週刊金曜日』8月29日号「特集 ヘイトの深層 -嫌韓・民族差別と歴史修正主義」によると、全国的に朝鮮人の強制連行・強制労働や戦争被害を記憶する追悼碑が攻撃や苦情の対象になっているようで、長崎の爆心地公園内の「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」もその一つだという。今年の「メッセージ」はそういった風潮の中であらためて「朝鮮人の原爆被害の原因が日本による植民地支配と強制連行・強制労働にあること」の認識と、朝鮮人だけではなく日本人も「徴用・学徒動員・挺身隊動員・報国隊動員」などの強制労働の中で被爆したということを認識する必要性を強調しているように思う。広島市や長崎市の市の公式式典で朝鮮人の被害が語られることはほとんどなく、原爆が非人道的兵器であることは間違いないが「核兵器廃絶だけを訴えるだけで足りるとは到底いえない」との問題意識を深く共有する。そして北朝鮮を含め、どこにいようとも被爆者は平等の扱いを受けるべきであるとの当然の主張に共感する。@PeacePhilosophy


2014年8月9日長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会


 
長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ


 長崎に原子爆弾が投下されたあの日から、六九年もの歳月が流れました。私たちは長崎原爆の犠牲となった朝鮮人を悼み、この追悼碑の前に集っています。一九七九年八月九日、岡正治牧師の呼びかけによって建立されたこの碑の除幕式に集った人々はわずか四〇名足らずでした。戦後三四年経っても、朝鮮人被爆者の存在は無視されていたといっても過言ではありません。朝鮮人被爆者は被爆者総数の一割にも及ぶと次第に知られるようになったのは、孫振斗裁判をはじめ、在韓被爆者の度重なる提訴や長崎在日朝鮮人の人権を守る会の実態調査があったからに他なりません。日本の朝鮮植民地支配と強制連行政策の犠牲者であることを認識するにつれて、良識ある人々は胸を痛めました。しかし、被爆者援護の政策から、在韓被爆者を最大多数とする在外被爆者が排除され、今なお差別が残されているのもまた事実です。
高實康稔

 長崎在日朝鮮人の人権を守る会の代表でもあった岡正治牧師は除幕式において、「爆死し、異郷の地で悲惨な生涯を閉じられた朝鮮人のために、その追悼碑を建立することを決意した。無論、このささやかな追悼碑の建設によって、かつて日本帝国主義が、朝鮮を武力で威嚇し植民地化し、その民族を強制連行し、これを虐待酷使し、強制労働に従事させ、遂にはあの悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任は決して消滅するものではない。」と述べています。この認識は、本日これほど多数お集まりの皆様と深く共有されているものと信じます。

「兄は私より一年前に北海道より北のサハリンの炭坑に徴用されました。私は昭和一九年(一九四四年)、夜寝ているときにいきなりカワニナを獲るように連行されました。それは結婚して五ケ月目の時です。私は二二歳、妻は一六歳でした。」「私は造船所では四年間で何隻も船を造りました。「航空母艦」も造りました。飛行機が二階に全部載るほど大きいものです。大砲も機関銃も乗せて飛行機爆弾も乗せて、下を見下ろせば七階の高さです。組み立ての時は生死の境目に立っているようで危険です。内部は至る所に空洞があり、足を踏み外し間違って落ちれば大変なことになります。感電して死ぬ人、落ちて死ぬ人、それが限りなく出てきます。」「私はサハリンも行って、サハリンで徴用にかかって、九州ハシマにも行った。解放される前の年に妻がサハリンに入ってきて八日間だけ妻と暮らし、解放の年の四月にサハリンで娘が生まれた。解放の時、ウェノム(日本の奴)はサハリンの妻たちを韓国に必ず送ると言うので、それを信じて私たちはそのまま先に韓国に帰還した。その後サハリンとは連絡も途切れた。」

 これらの証言は、長崎在日朝鮮人の人権を守る会が今春出版した『原爆と朝鮮人』第七集から引いたものですが、朝鮮人強制連行、強制労働、家族離散の真実を告発する無数の証言のごく一部分に過ぎません。しかし、これらの事実からだけでも、朝鮮人の原爆被爆の原因が日本による植民地支配と強制連行・強制労働にあることは明らかです。私たちはその歴史的因果関係を深く認識しなければなりません。

 また、これらは、韓国の政府機関である「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会」が刊行している被害者の申述集『私の体に刻まれた八月』と『酷い別離』に掲載されている証言ですが、同委員会が長崎に関する部分の翻訳(要約)を『原爆と朝鮮人』第七集に掲載することを快諾してくださったからこそ、今や私たちも読むことが可能となったのです。。委員会と翻訳の点検をしてくださった許光茂先生にどれほど感謝しても足りません。ここに厚く御礼を申し上げる次第です。

 原爆が非人道的な兵器であることは論を俟ちませんが、それ故に核兵器廃絶を訴えるだけで足りるとは到底いえません。朝鮮人強制連行・強制労働に対する責任を問うのみならず、日本人の場合も被爆死の多数を占める徴用・学徒動員・挺身隊動員・報国隊動員の責任を問う必要があります。朝鮮人を酷使した三菱重工業や新日鉄住金に賠償を命じる判決が昨年7月、韓国の高等裁判所で下されたことは歴史的必然と言うことができます。一九六五年の日韓基本条約で「完全かつ最終的に解決済み」とする日本政府や企業の主張は人道に反するばかりではなく、個人の賠償請求権は国家たりとも奪うことはできないという戦後進歩した国際法の規範に反するものだからです。

 安倍内閣は本年七月一日、集団的自衛権の行使容認を閣議決定しました。当然ながら反対世論が噴出しています。日本国民は、朝鮮人原爆犠牲者の無念の叫びに応えるためにも、「自存自衛」などと偽る戦争を絶対に再び許してはなりません。

 以上の見地に立ち、また積年の課題を含めて、私は次のとおり日本政府に要求します。皆さんの賛同を得られれば幸いです。

一、在外被爆者に対する医療費支給を国内被爆者と平等に全額支給すること

一、朝鮮民主主義人民共和国在住の被爆者に被爆者援護法適用の道を開くこと

一、個人の損害賠償請求権を認め、抜本的な戦後補償政策を確立すること

一、日朝ピョンヤン宣言に基づいて、日朝国交正常化を早期に実現すること

一、集団的自衛権行使容認は無謀かつ憲法違反であり、その閣議決定を撤回すること

 最後になりましたが、早朝にもかかわらず、本集会にご参集くださった皆様に心から感謝を申し上げ、メッセージを閉じさせていただきます。

   二〇一四年八月九日

 長崎在日朝鮮人の人権を守る会代表 髙實康稔
 
追悼碑に献花する学生
 

Monday, September 08, 2014

ヒロシマの「かたりべ」沼田鈴子氏のマレーシアでの「謝罪発言」の背景とその後(高嶋伸欣)

8月15日にアップした田中利幸氏(広島市立大学平和研究所教授)の若者向けの講演ノート「核兵器、原発、戦争責任 ~沼田鈴子さんの目で見る放射能被害と戦争の非人道性~(田中利幸 講演ノート)」に呼応する形で、沼田氏が参加したマレーシアへの旅を引率してきた高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)に特別寄稿をいただいた。

さる8月15日、戦争の記憶をたどる旅の参加者にバス車内で説明をする
高嶋伸欣・道夫妻。マレーシア・クアラルンプールにて。
沼田氏のように、同じ戦争において筆舌に尽くしがたい被害を受けた人が敢えて日本人としての立場性を取り、マレーシアに加害を行った広島の日本軍に成り代わって現地の人々に謝罪するという困難な行為を成し遂げたことの意義は、これを受け取る我々一人一人がどう理解していくかということにかかっていると思う。高嶋氏が述べるように、これは沼田氏という一原爆被害者の物語としてだけではなく、全ての日本人が自らと、歴史を直視することを避けがちな自らの社会の現状を省みて態度と行動を変革させていくための共有財産として生かしていくべきである。

また、この文で高嶋氏が触れている90年代初頭の中国新聞の史実を曲げた虐殺否定記事掲載と、「その後の同紙の対処法は実に見事」であり、「日本のジャーナリズム史上、特筆されてよい出来事」だったという記述からその詳細についての補足を高嶋氏にお願いし、補足していただいたものを文末に掲載した。誤報を修正するだけではなく、その史実について責任感とともに独自調査を行い本質に迫る新シリーズを掲載の上、単行本を発行するという徹底ぶりである。歴史への責任を立派に果たした例であり現在の日本中のメディアが見習うべきである。 長い文章であるがぜひ最後まで読んでほしい。@PeacePhilosophy

★この高嶋氏の寄稿の転載、引用の際は必ず初出として本投稿のURLを明記してください。
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/09/blog-post_8.html


ヒロシマの「かたりべ」沼田鈴子氏のマレーシアでの「謝罪発言」(1988330日)に至る経過と当時の状況
 
 侵略国日本の民衆とアジアの被害者の交流の軌跡  -戦争から和解に向けて-
 
 
高嶋伸欣

 

 1 はじめに

広島の沼田鈴子氏は、自らの被爆の被害体験だけでなく、日本側による加害行為についても広島の住民の視点から語る「かたりべ」として、修学旅行生などに話しかけていたことで、知られています。沼田さんは、戦時中の広島市が明治時代以来の軍都であって、軍隊と共存共栄の街だったことや、広島の部隊である陸軍第5師団歩兵第11連隊(主に広島に本籍のある兵士で構成)が、中国と東南アジアの戦線で侵略の最前線に配置されて加害行為を重ねていたという事実などを知ることで、戦争を多角的、構造的に認識する必要性を感じ、日本では戦争になれば誰もが被害者になったけれども、それよりも前に加害者になっていたということに気づくべきだと、語っていました。

 そのような戦争観を沼田さんが抱くようになった契機の一つが、東南アジア特にマレー戦線での日本軍による加害行為の事実、とりわけ住民虐殺の事実を知ったことだと、ご本人が語られています。しかも沼田さんは、1988年夏に日本に招かれたそれらの事件の幸存者(重傷を負いながら虐殺を免れた人)や遺族たちの証言でそうした事実を知ると、今度は自分自身が現地に出かけてさらにその実態を確認したのです。松葉づえをついての不自由なお体にも拘わらずです。

 そして19893月、マレーシア現地の被害者たちとの交流会の場で、「みなさん、私は皆さんの何も罪のないご家族を次々と虫けらのように殺した日本軍の根拠地広島の人間です。私は広島の部隊がマレーシアで残虐な行為をしていたことを知りませんでした。そのことを昨年知って、どうしてもマレーシアに来たいと思うようになりました。それは皆さんに、直接おわびを言いたかったからです。皆さん本当に申し訳ありませんでした。どうか許してください」(高嶋の記憶による大意の再現)という謝罪発言をしたのでした。

 この率直な発言は現地の人々にただちに受け入れられ、謝罪のために現地に出向いてきた沼田さんの誠意が高く評価されました。結果として、沼田さんの謝罪行動が侵略による被害者と軍国主義を支えてしまった日本人との和解を一歩進めることになったのでした。

また同時に、被爆者たちによる反核平和追求の運動のありかたをめぐる議論にも大きな影響を与えることになりました。

 謝罪発言にこうした重要な意味があることは、沼田さんの軌跡をたどっている人の多くが認め、沼田さんの功績として高く評価されているところです。けれども、そうした功績は沼田さん一人で達成できたものではなく、そこに至るまでの過程で、多くの人々が日本による加害行為の事実の掘り起しや加害責任について正面から向き合う取り組みを積み重ねてきたことがあったからこそ、沼田さんの出番が生まれ、沼田さんの謝罪発言を被害者たちが冷静に受け入れてくれたのではないでしょうか。それは、侵略行為を黙認したりあるいは積極的に支えていた当時の日本の民衆やその戦後世代とアジアの被害者たちとが、心に傷を抱きながら歩み寄ることが可能であることを示してくれたものであるように思います。けれども、沼田さんの軌跡をまとめられた方々の文献等においては、そうした観点からの経過や発言のポイントが必ずしも明確には示されていないように思われます。

 そこで今回、沼田さんとマレーシアからの幸存者たちとの交流や、広島の歩兵第11連隊が住民虐殺を実施した事実を知るに至った経過、さらには沼田さんから私(高嶋)が企画し実行していたマレーシアへのツアー参加申し込みを受け、現地での「謝罪発言」をされた場に立ち会っていた時の様子、帰国後のことなどを含めて、私が関わった事柄を中心に、こうした観点からの経過を時系列順に整理してみることにしました。

 ちなみにこれらの内容は部分ごとに分けた形で、私が広島その他の集会などですでに何度も語ったり、文字にして明らかにしてきたものが大半ですが、これだけまとめたのは初めてです。さらに、沼田さんの軌跡をたどってこられた方々からもこのことについての取材を何度か受けましたが、その後に取材者がまとめられたものでは、簡略化されていました。その意味でもこれだけ詳細に文字化するのは、初めてということになります。具体的な経過や様子を書き留めておく機会と考えています。

そのため、どうしても長文になります。この点については、ご容赦ください。

 

 2 マレーシアからの幸存者たちとの出会いの機会を作った「心に刻む集会」の由来と特色

 沼田鈴子さんが大きな衝撃を受けたとされているマレーシアからの幸存者との出会いの場になった「心に刻む集会」については、大阪に幸存者を招くまでの、加害責任を問い続けていた市民運動の取り組みがありました。幸存者を19888月に大阪へ招いたのは第3回「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会です。この組織は純然たる民間団体、それも常設ではなく同趣旨の集会の開催をめざす全国各地の市民グループのとりまとめのために毎年結成されていた組織です。活動は全くの手弁当で

行われました。

 同会の発足のいきさつは次のようなことです。1985815日に強行された中曽根康弘首相による靖国神社公式参拝に対し、国内外の人々から一斉に批判や抗議の声が沸き起こります。その中に、『朝日新聞』(926日)の「論壇」に掲載された、当時、関西大学の講師だった上杉聡氏の論考がありました。「アジア規模の慰霊祭開け」と題したその投書の趣旨は、追悼の意を表明すべき第1の対象は日本軍の侵略によって犠牲となったアジアの人々であり、日本軍戦死者を祀る靖国神社参拝は明らかに戦争責任の自覚を欠いた行為で容認できないというものでした。同時に上杉氏は、政府に批判や要求を提示するだけでなく、主権者国民自身が、自主的にアジアの被害の実態を確認することで戦争責任の認識を深め、アジアの戦争被害者への追悼の意を表明する取り組みをすべきだ、と指摘していました。

 この投稿に対して、すぐに賛同の声が広まり、上杉氏の住む関西地区で、自主的な活動への取り組みが始まります。様々な市民運動でのつながりなどを通じて呼びかけがされました。862月と3月の呼びかけ人会議を経て、524日と7月19日に準備会を開催し、815日には、第1回の「心に刻む集会」を大阪で開催しています。この時の経過や集会の内容は『アジアの声』(東方出版、1987年)に、詳しく記録されています(以後『アジアの声』は第11集まで毎年の集会の記録を収録)。

 この「心に刻む集会」の特色の一つは、政府の追悼式と同時刻に黙祷(沈黙の時間)を設定していることです。それは、815日の政府主催の「全国戦没者追悼式」では、原爆や空襲による日本の民間人も対象にしながらアジア・太平洋地域の犠牲者を除外していることへの批判の意味を込めた集会としているためです。このことは、後に触れるアジア各地の現地集会でも日本時間の12時に合わせて黙祷をするということが確認事項になって、今も引き継がれています。

さらに、同集会は815日の大阪集会に向けて、国内外から招いた人たちによる各地での証言集会を、各地域の実行委員会によってリレー式に開催することにしていました。海外と日本との往復費用は大阪集会の実行委員会で負担し、国内各地の分はそれぞれに負担することで、小さな実行委員会でも開催が可能となりました。しかも、大阪集会も含め、すべての集会は賛同金の募集と当日の参加費で賄われました。第1回の大阪集会では総額570万円でした。86年の第1回目では、大阪以外の8か所で関連集会を開催していますが、各地とも財政事情は同様でしたし、その手法で87年以後も多くの地域で証言集会を開催しています。大阪以外での集会の数は年によって変化がありますが、1995年の10回目の年は大阪以外の15か所で開催しています。「戦後50年」の節目という意味もあってのことでした。

 *「心に刻む集会」は2008年の第22回集会まで開催されています。その後は、日本に招く幸存者たちの高齢化に伴う滞在中の健康問題などが懸念されることなどから、開催を見合わせています。一方で、後述の「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」の参加者たちが組織した「アジア・フォーラム・横浜」による証言集会は、1994年から毎年128日直前の土曜日に開催し、2014126日の集会が21回目になります。

 

3 「心に刻む集会」の海外現地集会

 「心に刻む集会」のもう一つの特色が、第1回から現地集会を開催したことです。これは最初の呼びかけ人会議で「被害者を日本に招くだけではなく、こちらから現地へ出かけて追悼をすべきではないのか」という意見が出たのを受けてのことでした。そのために、19838月から「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」を企画し案内をしていた高嶋に呼びかけ人会議への参加が求められ、現地集会開催の要請がされました。当時、「傷跡に学ぶ旅」はタイのバンコクからシンガポールまでのマレー半島2000キロの陸上を20日程費やして移動して行くものでした。第1回の東南アジア現地集会は、映画『戦場にかける橋』のモデルで知られるタイのカンチャナブリ・メクロン鉄橋のたもとで1986815日に開催できることになりました。「傷跡に学ぶ旅」で協力していただいていた永瀬隆氏を通じて地元側からの参加が可能という見通しが得られたためです。永瀬氏は、「死の鉄道」として知られる泰緬連接軍用鉄道の建設に従事させられた連合軍捕虜兵士とアジア人ロームシャの取り締まりに当たった憲兵隊の通訳であったことから、その償いの行動を続けていた方です。

*永瀬さんによる償いと和解の取り組みについても、1982年以来、行動を共にした部分がいろいろありますが、それらについての報告は別の機会にします。

なお第1回「心に刻む集会」の19868月には、ソウルと南京でも現地集会を開催しています。

 こうして、この時から「心に刻む集会」実行委員会と高嶋との結びつきが始まり、現地集会はタイ国内からシンガポール、さらにはマレーシア各地へと場所を移しながら各地の地域組織の協賛・共催あるいは後援などの協力を得て、948月のクアラルンプール集会まで私たちの主催という形で、続くことになります。それが958月の戦後50年の節目の時からは地元の華人団体の主催に変更され、日本からはゲストとして参加する形で今日に至っています。日本時間の正午に合わせて黙とうすることが、現在も継承されているというのは、このことです。

  *「傷跡に学ぶ旅」自体、アジアからの戦争責任を問う声に誘発されて始まったもので、今年20148月で40回目になりました。始まりのいきさつなどについても、

話が長くなるので別の機会に報告をいたします。なお、ツアーの名称は何度か変更しています。

 

 4 沼田さんと幸存者との出会いに向けて――『陣中日誌』の発見

 1986年からスタートした「心に刻む集会」は、第1回が「シンガポール,韓国、中国、フィリピン」、第2回が「フイリピン、グァム、イギリス、在日韓国人」などからの証言者を招いていたもので、幾分か総花式の観がありました。そこで、第3回の1988年の集会以後は特集方式にすることになりました。その最初の特集を何にするかが検討されているところで相次いだのが、マレーシアでの住民虐殺に関する史料、証言の急浮上でした。

 最初は、第11連隊第1大隊の『陣中日誌』の発見でした。防衛庁(当時)研修所図書館の収蔵資料の中からこの公式記録を見つけ出したのは、関東学院大学講師(当時)の林博史氏です。878月の第5回「傷跡に学ぶ旅」に参加した林氏は、帰国後に日本側の記録探しに取り掛かります。そして、防衛庁研修所で日本軍の公式記録である『陣中日誌』を発見したのです。閲覧した中の第7中隊の19423月の分には、なんと「本日不逞分子刺殺数五五名」(34日)などと、住民虐殺の様子が具体的に明記してありました。

 林氏は、図書館のコピーサービスを申し込み、そのコピーが届く間にその他の部隊のものも閲覧するために、」私に連絡をしてくれました。そうした作業をしながら林氏と相談し、年末の冬休みにこのコピーを持って現地に行き、これらの記述通りであるかどうかを幸存者などに尋ねることにしました。そのような確認作業をした上で、記者会見などで公表しようというつもりでした。

 ところが、この予定に変更が生じます。11月下旬、林氏がこの資料を見つけたと聞きつけた共同通信社横浜支局の宗森行生記者が、是非とも128日向けの話題として記事にしたいと、言い出したのです。結局、宗森記者が藤原彰一橋大学名誉教授などに取材して「第一級の具体的資料」で「大変貴重だ」という評価を聞きだし、同記者により全国の共同通信加盟社に記事が発信されました。その記事は1987128日のほぼ全国の地方紙とブロック紙42紙、約1400万部の朝刊に掲載されました。『産経新聞』も載せました。第11連隊の地元である広島の『中国新聞』にも大きく掲載されました。

この記事で沼田さんは、広島の部隊が開戦から間もない時期にマレー半島で住民虐殺を実行していたことを知り、強い衝撃を受けたとのことです。その結果、マレー戦線での加害問題に強い関心を示されることになったのだと、ご本人が説明されています。

 その後、林氏と高嶋、それに休暇を取って自主参加の宗森記者の3人は予定通りに12月下旬の冬休みに、マレーシアに出かけ、第7中隊が担当していたネグリセンビラン州の各地で、『陣中日誌』の記録通りであったかどうかを、尋ね歩きました。その結果、当時を知る人々が記憶する日時や部隊が来た時と去った時の方向などすべて一致し、「そこに記載されている殺害(刺殺)人数が少な過ぎる」という異論があるだけで、その他は「ほぼ正確」ということになりました。これで、『陣中日誌』の1級史料としての評価は確定できたことになります。

 

 5 犠牲者数の論争が未決着であることの問題点


 なお、この犠牲者数の論争は発見当時だけでなく現在も未決着のままです。戦友会の関係者は「当時の認識では命令通りに実行していることを誇示したいという気分が強くあったので、どちらかと言えば実際よりも水増しした数字だ」と主張しています。一方の地元側では、「事件直後に仮埋葬していた遺骨を戦後しばらくしてから掘り起して墓や追悼碑を建立する時に、頭がい骨の数で人数を確認している」という根拠を挙げているケースもあります。

 いずれにしても、日本側が氏名どころかそれぞれの虐殺場所での人数さえ正確に記録していなかったために、未決着になっているものです。当時の戦時国際法はもちろん日本陸軍の刑法でも、戦闘中以外の場で敵側の人物を処刑するには、軍事法廷による死刑判決が出されてからでなければならないことになっていました。日本軍はそうした規定を平然と無視して、人々を「虫けら」のように殺害していたのでした。

 犠牲者数が未決着であることには、このような日本軍の恥ずべき責任問題が含まれているのです。

 ちなみに、「南京大虐殺」の犠牲者数をめぐる論争も、今なお延々と続いています。その論争の決着が着かない最大の原因も、同様です。南京に攻め込んだ日本軍が、法規通りの裁判の手続きなしで次々と殺害したからです。もし裁判をしていれば、人数だけでなく氏名の記録も残っていることになります。そうした記録に基づく数字を日本側が提示すれば、犠牲者数の論争はとっくに終結しているはずなのです。

 なお、犠牲者数の論争が半世紀以上も続いているのは、日本軍のこうした恥ずべき無法性に由来しているのだと、最初に明確に指摘したのは秦郁彦氏です。しかもその秦氏の指摘を紙面で紹介したのが『産経新聞』なのです。同紙が199471日から連載した秦氏へのインタビュー記事の中で、詳しく語られています。ただし、同記事の見出しには「『数』を語るのは不毛の論争」とあって、日本軍の責任を曖昧にする表現になっています。記事の内容からすれば「最初から日本側の“負け”が決まっている『数』の論争」とでもすべきものです。その「負け」を「不毛」と言い換えているところが、いかにも『産経』らしいやり方です。何しろこの連載のタイトルが「南京事件の真実・検証断罪史観」なのです。同紙としては当然のすり替え表現と思えます。

 

 6 第11連隊『陣中日誌』の存在のもう一つの意味

ところで、さらに話題が逸れますが、この『陣中日誌』の発見によってマレー戦線での住民虐殺の事実が確認されたことの意味について、もう少し補足説明をしておきます。

それは、別の中隊の記録綴りの中に、次のような内容の「第1大隊命令・第147号」が保存されていたということについてです。「一、鉄道線路及道路ノ両側五百米以外(以上)ノ支那人及英国人ハ老若男女ヲ問ハズ徹底的ニ掃蕩(皆殺し)ス」。幹線道路や鉄道線路から奥まったところにいる英国人と中国系住民は人目を避けているのだから、抗日ゲリラかその協力者に違いない。とりわけ中国系住民(華僑)は商売人で街に住んでいるのが普通なのに一軒家などにいるのは怪しいに決まっている。見つけ次第、子どもも含めてすべて殺せ、というものです。

けれども、当時のマレー半島はゴムの世界的な主要産地になっていて、幹線道路から奥まったところにもゴム園が広く作られていました。赤道に近い熱帯のゴム園で安く働かせられる労働者を確保するために英国政府が採った政策が、出稼ぎ中国人(華僑)の導入だったのです。こうした歴史的経過を認識していれば、「華僑は街に住んでいるはず」という思い込みの間違いに気づいたはずですが、日本軍の兵士にはそうした知識がありませんでした。

実際に第7中隊が担当したネグリセンビラン州の場合、州内の中国系住民の7割は農業従事者でした。州内には水田や畑作地はほとんどありませんから、大半はゴム園労働者だったことになります。しかも、労賃が安くすむように、各ゴム園は子どもも働かせる形での家族単位でゴム液の採取ができる範囲の規模にされ、それらの家族がゴム園内の一軒家で生活しているのが普通でした。

 そうした当たり前の状態が、第1大隊の命令書では、すべてゲリラかゲリラの協力者であることの証拠を示しているもの、とされたのです。この命令書の内容がいかに不当なものだったか、このことからだけでも明白なのです。

 加えて、この命令書の発見によって、日本兵による住民虐殺が日本軍の組織的な公式の行動として実行されたものであると、証明されたということになります。これまで、日本軍による住民虐殺について主に議論されていた中国戦線での事件では、このような公式の命令が出されたという証拠は見つかっていません。「南京大虐殺」をめぐる議論が半世紀以上も続いている理由の一つに、日本軍側の公式記録が見つかっていないことがあります。日本軍の不都合な記録の大半は、敗戦時に一斉に焼却などで廃棄するようにとの指示が全軍に出され、実行されたことが分かっています。他の虐殺事件の公式文書が出てこないのはこのためです。それだけに、この第1大隊の『陣中日誌』の発見、とりわけ命令書の発見は重い意味を持っていることになります。

*なぜ第1大隊の『陣中日誌』が破棄されずに残ったのか。それは、「病院船偽装事件」で第11連隊の第12大隊と山口の第42連隊の1個中隊、合計1562人全員が乗船中の船ごとアメリカ軍に拿捕されてしまい、記録の破棄ができなかったためです。敗戦間際の194583日のことです。マレー半島からインドネシアの島々に分散させられていた部隊がシンガポールへの再結集を命じられ、兵士全員を傷病兵に見せかけて乗船させた病院船の偽計を、海上の臨検でアメリカ軍に見破られたのです。病院船ごと拿捕された、日本陸軍史上最大の国際法違反事件とされています。しかもその責任をめぐって部隊内では醜い争いがあったとのことです。詳細は、恩田重宝著『偽装病院船事件―「橘丸」と戦犯裁判』(1977年、徳間書店)で明らかにされています。

さらに、第11連隊の『陣中日誌』が証明しているのは、マレー戦線での住民虐殺が命令書に基づく軍の組織的な行動だった、ということだけではありません。それは、前出の秦氏の指摘にあるように、当時の戦時国際法はもちろん日本陸軍刑法さえも無視した「不法殺害」に当たる訳ですから、山下奉文指揮下の日本軍には、ことアジアの住民に対しての法令順守の姿勢が決定的に欠けていたことを示している証拠でもあるのです。東京大空襲や日本全土への空襲による非戦闘員殺害や原爆投下での住民殺害の非人道性の責任追及は当然です。けれども同時に、というよりはそれらの殺害以前に日本軍がこうした「不法殺害」を公然と実行していた事実を、現在の日本の社会がどれだけ認識できているのか、疑問です。   

 こうした問題点が浮上してきた中で沼田さんはいち早く、被爆者であってもアジア侵略の責任問題を正面から受け止めるべきだと認識されたのでした。

 

 7 準ブロック紙『中国新聞』の虐殺否定企画記事--訂正とその後の対応

こうして、マレー戦線での住民虐殺の事実は、現地の人々の証言だけでなく日本側の公式記録によっても裏付けられ、明確なものと認識されるようになりました。けれども、林氏と高嶋の住民虐殺に関する究明活動はでたらめであるとの異論を唱えた例外的なケースが、あります。

 広島の『中国新聞』が1990816日から1991526日まで245回(毎回90行)連載した『BC級戦犯』の記事です。70万部(当時)の部数を持つ創刊100(当時)の準ブロック紙の記事でしたが、その内実は引用史料の改変や改ざんが多数あるもので、同紙にとっても汚点そのものでしかないという始末でした。林氏と高嶋による抗議と数度の話し合いを経て、同紙編集部も問題点を認識し、社内に総点検体制が組まれました。その後、91年の新聞週間初日の911016日朝刊に2ページ見開きの点検結果報告と謝罪記事が掲載されました。連載245回で訂正約1150か所、削除行数は数知れず。「改ざんがあると言われてもやむをえない」という惨状でした。そうなった原因は、筆者の恩田重宝記者が広島の戦友会などと癒着していたことに気づかず、彼のワンマン企画として一任して原稿のチェックをしていなかったためとのことでした。

こうして準ブロック紙『中国新聞』と林・高嶋という個人2人との対決は、新聞社側の全面的な謝罪という形で終わり、『陣中日誌』などで明らかにされた虐殺の事実認識は、今日まで揺らいではいません。ちなみに、その証の一つとして、90年代以後の中学と高校の歴史教科書に次々とマレー戦線での虐殺事件の追悼碑の写真や記述が登場するようになっている、ということがあります。歴史修正主義に影響されがちと言われている検定官たちも、虐殺の事実を認めるようになっているのです。
 
なお『中国新聞』の名誉のために、その後の同紙の対処法は実に見事であったことも紹介しておきます。そうした点を含めて、日本のジャーナリズム史上、特筆されてよい出来事だったと思われますが、ほとんど無視されているのは残念です(詳細については、文末の補足説明をご覧下さい)。この件の一連の経過については『マスコミ市民』199212月から11回の連載の拙稿ご覧下さい。また『週刊金曜日』20081017日号の拙稿でも概略をまとめてあります。ちなみに、この時に接触した『中国新聞』の関係者の内の何人かとは、今も年賀状の交換をしたり、広島で会食をしたりのお付き合いをしています。
 
ともあれこのように、マレー戦線での住民虐殺を第11連隊の兵士が実行したことに疑いの余地はない、ということを沼田さんも128日朝刊の記事から読み取り、深く考えられたのではないでしょうか。
 

 8 沼田さんと幸存者との出会いに向けてーー『日治時期森州華族蒙難史料』の出版

 沼田さんとマレーシアの幸存者の出会いの場となった1988815日、大阪での第3回「心に刻む集会」をマレーシア特集とすることになったもう一つの要因は、『日治時期森州華族蒙難史料』の出版だった、と集会実行委員会事務局長の上杉聡氏が語っています。「森州」とはネグりセンビラン州の中国語表記「森美蘭州」を略したものです。同書は州内各地での住民虐殺事件の幸存者や目撃者の体験談、それに追悼碑の建立経過などの記録を収録したものです。州内の各新聞の記事が土台になっています。

 森州では日本軍による住民虐殺事件が多発していました。それにもかかわらず、マレーシア政府はマレー系優先政策を採り、シンガポールのリー・クアン・ユー首相と同様に「ルックイースト(日本を見習え)」とのスローガンを掲げ、日本の企業を誘致することで工業化を推進したいとしていて、日本政府に責任を問うことには消極的でした。そうした姿勢に不満が高まっていた折の1982年、教科書検定で日本軍のアジア「侵略」を「進出」に書き換えさせていたという事実が発覚し、一斉に対日批判の声が挙がりました。けれども、正式に抗議したのは中国と韓国だけで、マレーシア政府はしていません。そこで、森州の華人団体総元締めの「中華大会堂」が州内各地の組織に対して「改めて日本軍占領中の住民虐殺事件などについての証言収集や墓地の整備、追悼碑の建立などを実施するように」との呼びかけをしていました。その結果、忘れられていた事件直後の仮埋葬地からの遺骨の掘り出しと墓・追悼碑の建立や体験者の証言収集が次々と実行され、その都度、新聞の地方版などで紹介されていました。19838月から高嶋が案内役になって始めた「傷跡に学ぶ旅」では、そうした最新の情報を現地で得て、急遽予定外の場所を訪問することもしばしばでした。さらに、その時のガイド(華人)が私たちのツアーの趣旨に共鳴してくれて、帰国後も関連の記事を送ってくれたりしていました。また、ツアーの打ち合わせのために私(高嶋)も年に数回は一人で現地に出かけ、そのたびに新聞記事を入手するように心がけていました。

 そのような状況下で『史料』集の編纂委員会が発足し、掲載された新聞記事を中心にした編集作業が、1988年半ばには完了していました。そのことを、私たちはまた新聞記事で知りました。当時はそうしたまとまった出版物がありませんでしたので、同書の出版を私たちは心待ちにしていました。けれどもその後、印刷・発行されたという記事がありませんでした。

 そこで、88年末に前出の『陣中日誌』の内容確認に同州へ出かけた際、その後の状況を尋ねてみました。「編集は終わって、いつでも印刷できる状態になっている。けれども、その印刷費用が用意できないので、そのままになっている。内容から考えて、有料頒布にはできないし、被害者・遺族も州外にいるケースが多いので、大会堂の資金で印刷するのも難しい」とのことでした。当面、発行の見込みはないという訳です。

 それはとても残念なことと思えました。念のために「印刷代はいくらぐらい?」と尋ねたところ「1000部を予定していて(当時の日本円で)30万円」とのことでした。そこで林博史氏と高嶋がその場で相談して、「とりあえずその30万円を私たちに出させて欲しい。発行部数を日本向け分として300部加算することにして、それを日本国内で1冊1000円の協力費として広げれば30万円は回収が可能で、私たちの個人負担ではなく、多くの日本人の協力の証明にもなると考えられるから」と申し出ることにしました。但し、「その内容が日本軍によって殺害された人々のことなので、その出版費用を日本人の協力で賄うのは許せないという意見もあると思われます。そうした意見が強い場合には、撤回します。検討してみてもらえませんか」とも言い添えました。森州の奥まったティテイでの聞き取りの時でした。

 急にそうした提案をされたティティの世話役たちは戸惑っていました。やがて、「我々だけでは決められないので、セレンバンの中華大会堂本部に伝えて決めてもらう。夜には返事が来ると思うが、今晩はどこに泊まるのか」と言いました。「東端のバハウの予定です。」「それでは宿に夜の8時には電話をする。」「その時間には宿に居るようにします」ということになりました。

 夜8時、部屋で待っているとフロントから「お客さんです」と呼ばれ、ロビーに降りると、10人程が待ち構えていました。ティティの世話役から「昼間の話を伝えたら、直接聞きたいということで、中華大会堂の幹部たちがセレンバンからやってきた。もう一度説明して欲しい」と言われ驚きましたが、同じ説明を繰り返しました。説明が終わってからの僅かながらの沈黙の時間には緊張しました。けれども、最初の一声は「ノープロブレム!」でした。肩の力が抜けました。

 それからは一気に話が進み、その場で林氏と高嶋の持ち合わせで30万円を一行に手渡しました。会計担当者も来ていて、領収証を渡されるという手際の良さでした。30分程で一行は引き上げていきました。西の端に近いセレンバンから東端のバハウまで峠を2つ越えて来て、また夜道を戻られたのでした。

 一か月後の翌年の19881月末に、印刷された同書が航空便で林氏と高嶋に送られてきました。日本向けの300部については、3月の春休みに「傷跡に学ぶ旅」を実施して、参加者たちに分担して持ち帰ってもらうことにしました。そうした見通しを得たところで、口コミによる同書の宣伝を国内で始めました。この時点で同書に強い関心を示した内の一人が、上杉聡氏でした。

 やがて上杉氏は3月の「傷跡に学ぶ旅」に参加して、幸存者たちに直接会うことになります。そしてその時に、森州の各地で出会った幸存者とその家族6人に、8月の「心に刻む集会」への出席の同意を取り付けるに至りました。

 

 こうして、19888月の「第3回 心に刻む集会―マレーシア特集」でマレーシアからの幸存者と沼田さんが出会う状況が整ったのでした。

 

  *日本分の『史料』300冊については、何回かに分けて持ち帰り、マスコミでの紹介もあって短期間でさばけ、30万円の回収もできました。一方でやはり翻訳本が欲しいとの要望が強く、青木書店の協力で『マラヤの日本軍』(19896月)を出版しました。同書には林氏と高嶋が解説を載せましたが、それらの稿料などをすべて著作権料に算入してもらい、その著作権料約17万円は、908月に森州の中華大会堂に届けました。森州中華大会堂では、909月が各州持ち回りの華人文化祭全国大会の開催州に当たっていて、全国からの数千人の参加者へのおみやげの準備に苦労していたところだったので、「このお金で『史料』の増補版を印刷して賄える」と喜んでもらえました。そのようにして全国からの参加者の持ち帰った『増補版 史料』が、各地の華人たちに地元での証言者探しや追悼碑整備などに取り組む新たな刺激にもなったとのことです。

    『増補版 史料』(1989年)も現在ではすでに在庫切れになっていますが、陸倍春氏(第12回「大阪集会」の証言者)たちによる「マレーシア紀念日据時期殉難同胞工委会歴史叢書 第4巻」として、2009815日にクアラルンプールで復刻版が出版されています。

 

 9 沼田さんとマレーシアの幸存者との出会いからマレーシア行きの決意まで

 以上のような前置きに当たる経過があって、沼田さんとマレーシアからの幸存者たちとの19888月の出会いが生まれたことになります。実は、この時の6人に顔ぶれが定まるまでには曲折があったりしたのですが、それらのことについては省きます。

 6人が参加した大阪集会やその夜の交流会でのやりとり、さらには6人を広島に招いてからの11連隊の石碑の碑文をめぐる議論、原爆資料館での原爆についてのぶつかり合いの様子について、高嶋は現地集会のこともあって815日前後に国内にはいない身でしたので、伝聞で知るしかありません。手がかりとしては、広岩近広著『被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言』(岩波ジュニア新書#740 2013年)に、時系列順に要領よくまとめられています。

同書でもわかりますが、『朝日新聞』1988821日朝刊社会面に掲載された松井やより記者による長文の記事でもおおよその様子が読み取れます。同記事の終わりに近い部分には次のようにあります。

「一行は平和記念公園で原爆犠牲者に花輪をささげた。しかし、このあと一行が出会った被爆者の一人が『なぜ米国は原爆を投下したのか』と米国を非難すると、『日本が侵略戦   争を始めなかったら、原爆も落ちなかっただろう』と文虎さんが気色ばんだ」と。

これらからでも、かなり厳しい議論があったことが分かります。ただし、幸存者の側も被爆についての認識を深めたことも確かです。そうしたことが、後に東南アジアで初めての原爆展をクアラルンプールで開催できることにも繋がっていったのです。その折には私が地元側との仲介を依頼され、やはりいろいろなことがありました。この件については、長くなりますので別の機会に報告することにします。

ともあれ、この時の大阪と広島での出会いで、沼田さんはそれまで以上に加害問題を正面から受け止める必要性を感じられたのではないか、と思われます。その結果としてマレーシアの現地へ行く決意を固めたということになります。

 *19888月の「第3回 心に刻む集会」の様子は『アジアの声 第3集 日本軍のマレーシア住民虐殺』(東方出版 1989年)にも、詳しく収録されています。

 

10 沼田さんにマレーシア訪問を決意させたもう一つの要因

以上の経過の後に、沼田さんはマレーシアに自分で行くという意思を固めたと、ご自分でも説明しています。その通りなのだと思われます。けれども私はもう一つの要因があったのではないかと考えています。それは、マレーシアを含めた日本軍の占領地や植民地だった東アジアの人々の間では「原爆は神の救け」「原爆によって暗黒の世界から解放された」「よくぞ米国は原爆を投下してくれた」あるいは「原爆投下は当然の報い」などという原爆観が幅広く存在しているという事実が、1980年代になってから次々に明らかにされたという事柄に関してです。

被爆者としてはこうした原爆観を受け入れることは到底できないと思われますが、かつて日本の支配下にあった地域の人々の間で根強く広がり、今も語り継がれているのも事実なのです。それならば、被爆者である沼田さんたちにとっては、そこまでアジアの人々が思い込む原因になっている日本軍や日本政府の加害の実態について眼を向けないわけにはいかない、という思いが次第に浮かんできていたのではないかという気がするのです。

 

11 「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識の始まり――1982年の教科書外交問題からシンガポールの歴史教科書記述へ

そうした原爆観の存在が知られるようになったきっかけは、歴史教科書の検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせていたことが露見し、外交問題にもなった1982年夏の教科書問題でした。日本軍による加害の事実を歴史教育から消し去ろうとしたことに対するアジアからの怒りの声の中に、「原爆投下は神の救い」という表現が登場したのです。

韓国の新聞に掲載された投書でした。投稿者自身が19458月下旬の処刑予定者リストに記載されていたことを戦後に知って、原爆のおかげで日本が降伏し、自分は救われたという思いを抱いたという意味でした。そうしたハングルの記事や投書を、「神戸青少年・学生センター」のハングル講座の教師・受講生たちがボランチィア活動で翻訳し自費出版した(『教科書検定と朝鮮』同センター出版部、19829月)ことで、この投書が知られるようになりました。当時はまだマスコミが扱うまでにはなっていませんでしたが、あちこちで話題になっていました。8211月には、東京のお茶の水女子大学の学園祭で、在日韓国人の作家の講演後の質疑で、学生が「この原爆観の人が韓国では多いのですか?」と尋ねたところ、講師は「原爆が落ちて良かったという考え方は多いのです」と答えています。このやりとりを含め、発端の韓国紙の投書のことを、私(高嶋)は「地理教育研究会」の『会報』(19835月)で紹介しました。

ついで19868月の「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」で、私たちはシンガポールの中学2年生用の歴史教科書の改定版「Social and Economic History of Modern Singapore 2(198511月発行)を入手して持ち帰りました。同書は1982年夏の「侵略・進出」書き換え検定問題の最中に改定作業がされていたもので、日本軍による侵攻と占領中の「昭南島時代」の記述が旧版の17ページから77ページに増やされていました。なぜこれほど増やしたのかについて、同国教育省の担当者は「公式のコメントはできない」としていましたが、「日本で侵略の事実を教科書から消す動きがあるのを意識してではないですか?」という問いに「まあそうですね」と答えています。

増えた記述では「昭南島時代」の過酷な占領政策が詳しく語られ、住民虐殺のことも触れられています。さらに「The End of the War」のページにはキノコ雲の大きな写真があり、本文では2つの原爆の投下とソ連の参戦で日本は降伏に追い込まれた、と書かれています。この教科書は国定のものです。シンガポールの中学生はこうした原爆観を19861月の新年度から学校で一斉に学ぶことになったのです。

私たちはこの教科書を日本に持ち帰り、研究会などで紹介して教員仲間に広めました。
 
 *そうする内に「易しい英語版でもあるから英語科にも協力してもらいながら、高校  生たちにこの77ページ分を訳させながら学習する教材にできるのではないか」というアイデアが出され、東京の私立正則高校の生徒たちによって実行されました。その出来上がり具合が予想以上であったことから、出版の話に発展し、19983月に『外国の教科書の中の日本と日本人』(一光社) という書名で出版されました。当時は、外国の歴史教科書の翻訳出版は珍しく、まして高校生が翻訳したものという点に話題性があって、テレビや新聞で一斉に紹介されました。出版元はミニ出版社でしたが、こうした報道のおかげで増刷を繰り返して、10万部に達したとのことでした。この時の報道でも、主たる話題扱いではありませんでしたが、原爆観のことが触れられていました。

こうして、日本国内の従来の原爆観とは全く異なる原爆観が近隣諸国に存在していることが、1982年頃から少しずつ日本国内でも知られるようになってきていたのでした。それにしても、そのようになった原因が日本の教科書検定問題だったというわけですから、何とも皮肉なことです。

 

12 「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識の広がりーーセントサ島戦争博物館の展示の衝撃

日本国内で「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識が急速に広がったのは、シ
ンガポールのセントサ島戦争博物館の展示の紹介が、1987年以後にされるようになってからでした。同博物館の展示は1985年までは古臭く退屈なものでした。それが約1年間の休館後の展示は実物資料も豊富になって、日本軍占領時代の苦難の様子が要領よく示されていした。ところが、日本軍降伏の段階になる直前の部分では、床から天井までの壁一面に引き伸ばされた広島市街地の焼野原の写真とキノコ雲の写真が並べられ、爆弾投下の音が流されていたのです。878月の「傷跡に学ぶ旅」の際、ガイドの人に「なぜここでヒロシマなのか?」と尋ねたところ、「原爆のおかげで日本軍支配の暗黒の時代から解放された、という意味です」との説明でした。「それはこの博物館だけの考え?」「いえ、シンガポール中がそう考えています。何しろ学校でそのように教えているのですから」というやりとりになりました。1970年代までの歴史教科書ですでにそのように教えていたと、いうのです。

その通りでした。そのことは、70年代の『小学歴史 6下』教科書で確認できました。その内容が80年代は中学校歴史教科書に移されていたのでした。

*中学校で「38か月」を初めて学ばせることにしたのは、当時のシンガポール政府が「ルックイースト」政策で日本との友好関係を強調しているので、歴史と現在を冷静に識別するのが難しい小学校段階は避けたのだ、ということでした。けれども1991年のペルシャ湾への掃海艇派遣やその後の日本国内での歴史修正主義の台頭などの動きを受けて2000年からは、小学校4年生のSocial Studiesでは半年をかけて日本占領時代を詳細に学ぶ教科書『The Dark Years』が登場します。それが最近ではまた80年代前半の状況に戻されています。こうしためまぐるしい変遷についても、詳しくは別の機会に報告することにします。

なお、この間も原爆投下によって日本が降伏に追い込まれたという観点は、一貫しています。

この展示に私たち「傷跡に学ぶ旅」の参加者たちは衝撃を受け、帰国後に「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ヒバクシャ」というスローガンでは理解してもらえない原爆観が東南アジアに広汎に存在していることを、機会あるごとに報告することにしました。この時のツアーの報告書『侵略・マレー半島“87』には、前出の70年代のシンガポールの教科書『小学歴史 6上』(華語版)の日本語訳を収録しました。

その頃、私たちの活動に岩波書店のブックレット担当者が関心を示してくれていて、それまでの活動について私が原稿を書くことになっていました。そこで出版できたのが拙著『旅しよう東南アジアへ――戦争の傷跡から学ぶ』(岩波ブックレット#9919879月)です。書名には、海外旅行ブームではあるけれど、欧米ばかりではなく身近な東南アジアにもっと関心を向けて欲しい、という気持ちを込めました。さらに書店で手にしたときに「えっ!」という印象付けをすることも意図して、冒頭部分で「原爆投下は神の救い」という原爆観が広く存在していることを説明しました。幸いにして同書は増刷が繰り返され、

多くの方たちに読まれていることがわかりました。

 さらに翌88815日の『朝日新聞』文化欄で、同書のこの部分の指摘のことが詳しく紹介されました。私は「傷跡に学ぶ旅」で国外にいて、帰国後にこの記事のことを知りました。事前に取材を受けてはいたのですが、これほど大きな扱いは予想していなかったので、驚かされました。

さらに驚かされたのは、この記事でこうした原爆観の存在を初めて知った、と立花隆氏が『週刊現代』(88917日号)の長文コラムで率直に吐露されていたことです。同コラムで立花氏は『朝日』の「記事にはショックを受けた」とし、「原爆は神の救い」となぜアジアの人々が考えるのかについて虐殺の事実などを具体的に挙げ、最後を次のように結んでいました。

 「その実行部隊の中心となったのが、第5師団、すなわち、広島に本拠を置く師団だったのである。ヒロシマは原爆では被害者だったが、シンガポールでは加害者だったのでる。ヒロシマだけではない。日本全体がヒロシマと同じ立場なのである」と。

 博識で知られる立花氏でさえ「ショックを受けた」ということでしたから、広島の被爆者たちのショックはその数倍のものになるだろうと、私は想像していました。それだけに、こうした原爆観の存在を広く知らせて良いのか、迷いがありました。ツアーの参加者たちとも話合いました。結論としては、現実に目をつぶるのではなく事実を伝えることで、それを乗り越える道を被爆者と共に探そう、ということになったのでした。

 当初、東京での研究会などの席上で報告した段階でも、同席していた被爆者やその身内の方などから、強い反発があったりしました。心に傷を残すことになったのではと思いながら、誰かがやらなければならないことなのだからと、自分に言い聞かせていました。

 『陣中日誌』の掘り起しによってヒロシマの部隊の責任であることを明らかにし、さらにアジアの原爆観の実態を示すことで原爆投下の認識の問い直しを求めたことになります。私にとっては気の重くなる取り組みでした。それだけに、こうした新しい史料や証言、状況分析に対して正面から事実を受け止めて直視し、被爆者にもそれなりの責任認識が必要ではないのか、という議論を重ねていた沼田さんたちの被爆者グループの取り組みに、どれだけ救われる思いになれたかしれません。

 今回、このまとめを書きながら、手が何度も止まりましたが、沼田さんたちの心の葛藤の方がはるかに重かったはずと思い、作業を進めました。改めて沼田さんたちの行動の意味に学びたい、と思っています。

 

13 沼田さんのマレーシア訪問と現地での「謝罪発言」(19893~4月)

「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」は、原則として夏休みに実施していましたが、「現場教員は夏休みよりも春休みの方が参加しやすい」との意見があって、89年も春休みに企画・実行することにしていました。

その参加者募集を始めて間もなく、沼田さん自身から私に電話がありました。「ツアーに画家の吉野誠さん夫妻と参加したいけれど、松葉つえをついてでも大丈夫ですか?」ということでした。「基本的には専用のバスで移動します。バスの乗り降りが少し負担になるかも知れませんが、その点はどうですか?」「日本国内でも経験しているので大丈夫です」「それならば、あまり心配はありません。もしバスが入れない細い道になっている場合があれば、その時だけバスの中で待っていてもらえますか?」「それでいいです」などというやりとりを経て、沼田さんと吉野さん夫妻の広島からの参加が決まりました。

正直、当時の私は、被爆者自身のツアー参加を想定していませんでした。でも沼田さんたちの参加で、新たな局面がうまれることになるので、ありがたいことと思っていました。

さらに私たちのこれまでの取り組みに、被爆者たちがそれなりに注目してくれていることの表れとも、思えたのでした。

マレーシアの現地では、虐殺事件の現場に案内すると言われ、畑の間の細い道を数百メートル歩くことになったりしました。沼田さんはそれでも一緒に行くと言われてバスから降りたところ、地元の人がバイクの後ろ座席に沼田さんを横向きに座らせて、現場まで楽々と乗せてくれました。結局、沼田さんは全コースで私たちと同一行動をやり通しました。

 春休み中の短い日程にする必要性から、この時はクアラルンプール市内外と森州内を中心としたコースにしてありました。地元の華字紙の地域版の紙面では連日、一行の動向を詳しく伝え、とりわけ沼田さんの様子を写真つきで紹介していました。そこには、沼田さんに付き添う蕭文虎さんとのツーショットが大きく載っていました。

その沼田さんが特に注目されたのは、ティティでの交流会で「謝罪発言」をした時です。

 ティティの町から丘を一つはさんだイロンロンでは1942318日に日本軍によって村民1474人が殺害され、家屋は焼き払われて、村が地図から抹消されたと『史料』集にはあります。犠牲者の墓と追悼碑は姉妹村であるティティの義山(墓地)に19798月に建立されています。私たちツアーの一行は、この追悼碑と墓に参拝した後、地元の群英学校の体育館に用意された交流会の会場に移動しました。マイクも用意され、地元の人百人以上がすでに待っていてくれました。

 そこで、地元の世話役とあわただしく打ち合わせをして、日本側と地元側と交互に3分毎を目安としてスピーチをすることにしました。そうした展開は事前に聞かされていませんでしたので、私たちの側での打ち合わせは何もなくぶっつけ本番の状態でした。こうしたことは、それまでにもままあったことなので、成り行きにまかせる、というのがその時の私の考えでした。日本からのメンバーには「一人3分以内という原則で地元側と交互にスピーチをすることになりました。何について言うかは全く皆さんの自由です。最初に発言したい方、いますか?」との問いかけに、すかさず「はい」と名乗り出たのが沼田さんでした。

 「ではどうぞ」ということで、沼田さんが双方の最初の発言者として通訳のガイドと共にマイクの前にたちました。この時、私は沼田さんの前年夏の大阪と広島での蕭文虎さんたちとの議論の様子などを詳しくは知らされていなかったので、気軽に考えていました。ところが沼田さんは予想もしていなかった「謝罪発言」をしたのです。こうした問題の責任については、被爆者個人が最初に謝罪する事柄ではないと、私は思っていました(今も同様です)から、驚きました。沼田さんの発言を聞きながら、今夜のミーティングではこのことで意見交換が必要になりそうだけれど、どのように進めようかなどと考えたりしていました。

 けれども、沼田さんのスピーチが終わった途端に、そのようなことを考えていられなくなりました。会場の人々が総立ちになり、前の方の人々が沼田さんに殺到してきたのです。

危険なことになるのではないかと思い、割って入ろうかと少し近づきましたが、そうした様子ではないのでしばらく落ち着くのを待つことにしました。

 一段落してから通訳をしていたガイドが戻ってきて、説明をしてくれました。地元の人たちは沼田さんのスピーチに感激して駆け寄ってきていたのだということでした。「原爆で片足を失った不自由な体で、ここまでよく来てくれた」「日本人からいつか聞きたいと思っていた言葉が聞けてうれしい」「あなたこそ被害者なのに、よくぞ言ってくれた。感激している」などと口ぐちに叫んでいたのだそうです。

 まずは沼田さんが無事であったので一安心でした。沼田さんもマレーシアに来てどこかで伝えたかったことを、明確に表明できて気持ちが落ち着いているようでした。謝罪を表明した場合に地元側からどんな反応が返ってくるか、多少の不安もあっただろうと想像されましたが、実際の反応が予想以上に好意的でしたので、安心して緊張が一気に解けているようでした。

 

 14 沼田さんの「謝罪発言」の別の意味

一方で、私は複雑でした。やはり地元の人たちは、私たち日本人からの謝罪の言葉を待っていたのか、と思わずにはいられませんでした。それまでにも、虐殺事件のあった地元に初めて一人で入った時には「日本人が何しに来たのか」と冷たい視線に晒され、石を投げられたり、数時間の吊るし上げも何度か経験しました。殴りかかられそうになったこともありますますが、こういう日本人もいるのだからと、周りの人がなだめてくれて事なきをえました。私は、殺されるのでなければ多少のことは仕方がないと、自分に言い聞かせていました。そうされても不思議ではないという戦時中の事実を、私自身が掘り起していたのですから。それでも、そうした感情を抑えられない人は少数派ではないかという思いがありました。それが沼田さんへの反応で、甘い判断だったと思い知らされたのでした。

これではますます、これからの取り組みの姿勢が問われる。これまでの調査や追悼の取り組みなどで、そろそろ区切りにしてもいいのではないかなどとは、口が裂けても言えない。可能な限りマレー戦線での日本軍の戦争責任についての取り組みを続けるという覚悟を決めるしかない。自分はそのようなテーマを1975年のマレー半島旅行以来自分に課してきていたのだった、と改めて思わされた場面でした。

 

 15 その後の沼田さんと広島の平和運動

 沼田さんはこの時のツアーから広島に戻って以後、大忙しだったそうです。帰国後数日して「疲れていませんか」と電話をしたところ、「大忙しよ。語り部の仲間への報告は数日先にすることになっていたのに、家に戻った日の夜にみんなが『どうだった?』と次々電話してきて待っていられないというので、急に翌日に集まってもらうことにしたの。向こうでのことを話したら、みんなとても喜んでいるのよ。やっぱり被害のことばかりではアジアの人と気持ちを通じあうのは無理だねって言っているわ」ということでした。

 被爆者仲間にも理解されたということで、安堵しました。

 さらに、多くの人たちからの情報で沼田さんが修学旅行生などへの語りの中で、アジアへの視点を必ず織り込んでいると知りました。やがて全国の地方紙が89728日に掲載した共同通信配信の連載記事『89ヒロシマ・ナガサキ 真実の検証』<第1回>で「問われ始めたヒロシマ 語り部たちに微妙な変化」という見出しの下、沼田さんの認識の深化の過程が紹介されていました。さらに、その連載を受けて『沖縄タイムス』の8月5日朝刊の第1面コラムではその深化の過程に注目し、沖縄戦認識の議論にも生かしたいものであるとしていました。広島や長崎だけでなくその他の地域でも注目され始めていたようです。

 

 16 まとめとして

 沼田さんの認識の深化、それは沼田さん自身の感性と知性の豊かさによると同時に、国内外の多くの人々の長年の取り組みに支えられたものであったのだと、思います。そうした総合的な共同作業の成果であるだけに、沼田さんの残したものが共有財産として注目され引き継がれていくようにすることが大切だ、と考えています。沼田さんの心の軌跡に幾分かでも寄り添えたのだと今振り返り、多くの仲間と共に様々な取り組みを長年続けてきたことの意義を改めてかみしめています。

 けれども、1989年から早くも25年になる現在、まだまだ沼田さんが期待した変化が日本の社会全体に及んでいるとは、到底言えない状況です。これからも粘り強く取り組みを続けなければという思いも、新たにしています。

                            (20149月4日 記)
 
 


<補足説明 『中国新聞』が訂正・謝罪後に実行した責任ある行動について>


                                  高嶋伸欣


 
 『中国新聞』は長期連載『BC級戦犯』で、引用資料の改変が多数に及び、改ざんさえあったとの事実を社内の点検活動によって確認し、それらの事実を紙面で明らかにした上で、読者や関係者にきちんと謝罪しました(19911016日・朝刊)
 これだけであれば、誤報をした時の訂正と謝罪という前例と比較しても、それほど特筆に値することではないと、思われました。けれどもその後の同紙が採った行動は、前例のない特筆に値するものでした。
 
 『中国新聞』はまず、全国の主要図書館に対して、同紙の購入と保存の状況を照会しました。その上で、購入と保存・閲覧対象としているとの回答があった図書館に対しては、同連載が掲載されている908月から915月までの『中国新聞』閲覧の申し出があった場合には、社内点検結果をまとめた正誤一覧表を必ず添えて、書庫から出すようにと依頼したのです。送付された正誤一覧表は『中国新聞連載「BC級戦犯」異動一覧』と題され、A4164ページに及ぶ詳細な内容のものでした。
 私の知る限り、新聞だけでなく雑誌でも重大な誤報が明らかになっても、読者などに対してはその後の紙誌面で訂正と謝罪をすれば、それで“一件落着”としているものが大半です。
『中国新聞』も、同様に紙面で訂正と謝罪をしていました。それも1ページ分15段ぶち抜きで、史料改変や改ざんの事実を明らかにし、隣のページで経過説明や謝罪の意を表明をしたものでした。他紙の事例と比較しても充分と思えます。にもかかわらず、図書館などに対してこのような手配をしたのです。社会的責任を可能な限り果たそうとしている姿勢が、明白に読み取れます。
 この資料は、国会図書館や新聞博物館図書室(横浜地方裁判所の向い側)などで、現在も閲覧可能なはずです。
 
 『中国新聞』の次の事後対応は、一般読者に対する責任を果たすためのものでした。社内の中堅記者たちを日本が支配した軍事占領地・植民地の各地へそれぞれ派遣して、侵略の実態について取材させたのです。記者たちからは、担当する地域についての情報や取材先についての協力要請が、私たちにありました。その時点で得ていた情報は、提供しました。そうした取材の成果が、19921028日から93629日まで、地域別の断続的シリーズとして同紙に掲載されました。通しのタイトルは『亜細亜からアジア 共生への道』でした。最初のシンガポール編「『改名の島』は今」の1回目では「『終戦早めた』キノコ雲」と題して、「原爆投下は神の救い」という原爆観が広汎にあることを、明らかにしていました。その後の連載の内容も、侵略の事実を正面から指摘するもので埋められていました。
 当然のこととして読者からは、賛否の声が寄せられたそうです。その読者の声も一つのシリーズが区切りになる毎に特集として紹介されました。マレーシア、韓国、台湾、インドネシア、タイ、フィリピン、中国とシリーズは続きました。
 やがてこれら連載記事に関連資料を加えて単行本が編纂され、93年秋に同名の書として出版されました。けれども、中国新聞社からの出版であったために全国の一般書店への供給ルートには載りませんでした。そのためあまり広く知られることなく、数回の増し刷りの後に絶版となりました。
 それでもなお、これだけ具体的にアジア全域での侵略の事実をまとめた文献は、その後も
出現していないと、私は思っています。幸存者など体験者からの聞き取りを原則にしたこのシリーズに登場した人たちで、すでに故人となった証言者も少なくありません。今なお貴重な文献であることに変わりありません。
 
 ともあれ、こうした連載記事の掲載を実行したことで、『中国新聞』には報道人としての社会的責任の意識が明確に息づいている事実が証明された、と言えます。創刊100年の記念すべき時に起きた連載『BC級戦犯』の不祥事にもかかわらず、同紙の伝統に揺らぎがないことが証明されたのでした。
 ちなみに『中国新聞』の伝統として報道人の間で語り継がれているのは、市内での暴力団抗争の激化を受けて「暴力団追放キャンペーン」を全力で展開し、脅迫に屈することなくやり抜いて、広島市を平穏な街に変える先導的な役割を果たしたことです。その時、報道部で中心となっていた人物としての今中亘氏の名は、同キャンペーンのことと共に、それ以後、報道界では広く語り継がれていました。
 その今中氏が、『BC級戦犯』掲載時の同紙の編集局長でした。資料改変・改ざんの多数の事例を示す資料を添えた、林氏と私からの抗議文を受けて事態の深刻さを認識した今中氏は、ただちに上京して私たちに謝罪し、社内できちんと責任を明白にしてけじめをつけると表明されたので、私たちも一任することにしました。名前だけは知っていた今中氏と気付いたのは、名刺を交換した時でした。何というめぐりあわせと驚きながら、私たちはその後の様子を見守り続けました。その結果が、これまで明らかにした通りです。語り継がれてきた通りの気概が示されたものだと、私は受け止めています。
* ただ残念なことに、こうした今中氏たちによる対応は日本のジャーナリズムの歴史上でも大いに注目されて良いはずのことですが、そうした様子がこれまでのところほとんどみられません。研究者の間でも無視されているように思えます。最近の『朝日新聞』によるいわゆる「従軍慰安婦」報道総点検をめぐる議論でも、報道を訂正した後の『朝日』の不手際ぶりは明らかです。『朝日』社内には『中国新聞』の優れた先例を知る人がいないのでしょうか。さらに『朝日』以外の人たちからもこの先例の存在を指摘する声が挙がっていません。立派すぎて、他紙ではとても実行できないということでしょうか。これでは、日本の加害責任を正面から追及するジャーナリズムの気概を求めることなど、到底無理です。残念の一語です。   (201495日記)